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三日月の夜の夢

小説や漫画の感想を書いています。あくまでも気ままにゆっくり更新中。

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☆孚子内親王(桂宮)〜人物辞典より 

こちら、『海人の刈藻』の概要…?にも書いたのですが、以前HPを運営していたときに書いた記事。

私がやっていたHPはみなさん思い当たらないとは思うんですけど、もし思い当たって気付かれた方がいらっしゃったら、コメントではなくメールフォームからお願いします!!←何度も書く。

敦慶親王と対になる記事で書いたものです。

これで、当時HPに書いていた人物紹介は終わりです。ひそかに続けてみたいです。
文体も変わっているし…。
とりあえず、伊勢は書きたい(笑)当時、挫折したデータも残っていたし。







孚子内親王(桂宮)
さねこないしんのう(かつらのみこ)

(?〜958)

 宇多天皇皇女。母は十世王の娘徳姫女王。無品。
 「桂宮」の名は、住んでいた屋敷の前に桂の大木があったことに由来しています。

 彼女は生涯独身でしたが、『大和物語』や『後撰和歌集』には、敦慶親王や源嘉種や貞数親王と関係があったことが記されています。名前が伏せられている人もいます。

 『大和物語』二十段には次のようなことが書かれています。敦慶親王のことを思い慕い、けれど親王が訪れなかった(当時は通い婚で、男が女の元に通います)月の美しい夜、彼女は歌を詠みます。

 久かたの空なる月の身なりせばゆくとも見えで君は見てまし
 わたしは月に縁のある桂という名を持っていますが、もし本当の月だったら、あなたの所へ行っても人に見咎められず、あなたにお会いできるのに。

 中国の伝説に月の中に桂の大木がはえているというものがあることから、「桂宮」という自分の呼称をかけたものです。

 また、源嘉種に桂宮が送った歌として、百七段に、
 露しげみ草のたもとを枕にて君まつむしの音をのみぞなく
 露がたくさん置いているので、びっしょりとぬれた草の中の松虫のように、あなたを待つ私は、声をあげて泣いてばかりいるのです。
 と、載っています。

 彼女と嘉種の関係としては、七十六、七十七段にこのようなことが書かれています。源嘉種との関係を母である徳姫女王に反対され、桂宮の屋敷の門を閉めさせてしまいました。嘉種は桂宮に会うことができなくなってしまいます。また、桂宮が父・宇多天皇の屋敷に召された時、会えなくなることを怖れた嘉種の和歌も載っています。

 桂宮は、天徳2年(958)4月28日に亡くなり、多情多感な歌人として後世に知られることになりました。私の感想ですが、彼女は一つ一つの恋に真剣だったのではないかと思います。

 彼女に少しでも興味がわいた方は、ぜひ『大和物語』を読んでみて下さい。図書館でも借りられると思いますよ。


★参考図書★
 新編日本古典文学全集12 大和物語(小学館)




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☆敦慶親王〜人物辞典より 

こちら、『海人の刈藻』の概要…?にも書いたのですが、以前HPを運営していたときに書いた記事。

私がやっていたHPはみなさん思い当たらないとは思うんですけど、もし思い当たって気付かれた方がいらっしゃったら、コメントではなくメールフォームからお願いします!!←何度も書く。

桂宮と対になる記事で書いたものです。桂宮はあとでUPします〜!!







敦慶親王
あつよししんのう

(887〜930)

 平安時代の色好みというと、在原業平が有名ですが、敦慶親王もそうとうな色好みでした。親王は、宇多天皇の第四皇子として誕生します。母は藤原胤子。醍醐天皇の同母弟にあたります。宇多天皇の妃のひとりである藤原温子の猶子となります。

 延喜のころは中務卿、醍醐朝の末期には式部卿。二品に叙されます。

 親王は容姿端麗で、世の人は「玉光宮」と呼んだといいます。和歌にも優れ、その和歌は『古今和歌集』にも採られています(もちろんその他の勅撰和歌集にも)。そして、琴もよくしました。当時の宮廷人にとって必須だった和歌と管絃の二つに秀でていたわけです。

 こうした親王には、たくさんの女性達とつきあいがありました。北の方(正室)は宇多天皇の第一皇女均子内親王(ちなみに母は藤原温子)。親王とは異母兄妹にあたる人です。けれど、この北の方は21歳で夭折してしまいます。

 その北の方の死後、かなりの期間にわたって続けられたのは、伊勢という人との関係でした。伊勢は、均子内親王の生母温子に仕えた女房です。彼女は、親王の父であり温子の夫である宇多天皇とも関係があった時があり、皇子も生まれましたが、その子は夭折していました。彼女は親王に琴を教えていたといいます。二人の関係は親王が死ぬまで続きました。二人の間に中務という一女も生まれました。中務はのちに有名な歌人となります。

 その他にも、『後撰和歌集』で、源頼(みのもとのたのむ)の娘や宇多天皇第三皇女君子内親王と関係があったことが残されています。『大和物語』には、二条の御息所という女性との関係も書かれていますが、誰のことか分かっていません。

 『大和物語』に書かれている中で、私が一番好きなのは、桂宮(孚子内親王)との関係です。彼女は宇多天皇皇女で、母は十世王の娘徳姫女王です。彼女は生涯独身を通しましたが、いろいろな男性と関係を持ちます。桂宮は別に項を設けて紹介しますので、そちらをご覧ください→こちら(後日UPします〜2010.10.25記)
 『大和物語』には、二人の物語が和歌を交えて描かれています。

 親王は、延長8年(930)2月28日、花が盛りの亭子院で亡くなりました。44歳。兄の醍醐天皇も7ヵ月後に亡くなっています。

 親王は、光源氏のモデルとなったとも言われています。



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☆藤原原子〜人物辞典より 

こちら、『海人の刈藻』の概要…?にも書いたのですが、以前HPを運営していたときに書いた記事。

私がやっていたHPはみなさん思い当たらないとは思うんですけど、もし思い当たって気付かれた方がいらっしゃったら、コメントではなくメールフォームからお願いします!!←何度も書く。

有名な藤原定子の妹。後の三条天皇の女御です。東宮の妃でしたが、淑景舎女御などと呼ばれていました。







藤原原子
ふじわらのげんし

(980ごろ〜1002)

 藤原道隆の二女。母は高階貴子。同母姉に一条天皇皇后定子がいる。

 彼女は関白道隆の娘として、一条天皇の御代、東宮であった居貞親王に入内します。一条天皇の中宮は姉の定子であり、道隆の権力基盤のコマとして使われたわけです。当時の藤原氏は、自分の娘を天皇の女御とし、その娘が産んだ皇子を天皇にし、自分は天皇の外祖父となって権力を握るということをしていました。

 原子は長徳元年(995)1月、東宮に入内しました。東宮は一条天皇よりも年上でした。この当時は親から子に帝位が譲られることはあまりなく、天皇と東宮の年齢が逆転することはよくありました。実際に、一条天皇と東宮は従兄弟の関係です。入内した時原子は14、5歳でしたが、東宮は20歳になっていました。そんな年になっていますから、東宮には他に妃がいました。

 当時天皇や東宮など皇族が元服した夜、添臥という女性が選ばれました。公卿の娘で年上の女性が選ばれ、傍に臥して寝るわけです。その女性は通常はそのまま妻となります。居貞親王の添臥は藤原綏子(すいし)という女性でした。藤原兼家の娘で、道隆にとっては異母妹にあたる人です。彼女はのちに他の男性と密通事件を起こします。
 綏子の他にも妃がいました。藤原☆子(せいし)です<女へんに成>。彼女は正暦2年(991)東宮自身に望まれて入内します。原子が入内する時にはもう皇子が産まれていました。ですが、あまり父親の身分が高くないので身分では原子には勝てず、原子が入内する前に御所を退出してしまいます。そういうわけで、原子は東宮の寵愛を受けます。

 姉・定子に仕えた清少納言が記した『枕草子』には、原子と定子の対面の場面が書かれています。原子は内裏の中で淑景舎という建物に住み、定子は登花殿という建物に住んでいたため、原子が入内しても二人は会っていなかったわけです。この対面は道隆やその息子の伊周と隆家など、道隆一家(中の関白家)の晴れの舞台となりました。

 しかし、その2ヶ月後、関白道隆が亡くなり政局は道隆の弟・道長が握るようになると中の関白家は衰退していき、さらに伊周と隆家が流罪になったことでそれは徹底的になってしまいます。後ろ盾がなくなった原子は内裏から退出し、東宮に会うことが出来なくなります。

 けれども、東宮は原子に会いたいと思い手紙を頻繁に送ります。手紙への原子の返歌が『栄花物語』に残っています。

 秋霧の絶え間絶え間を見渡せば旅にただよふ人ぞ悲しき
 秋霧の絶え間を見渡すにつけ、旅の空に流浪する人たちの身が悲しく思われる。

 伊周と隆家が都に戻った後も、彼女には思うにまかせぬ日々が続き、長保4年(1002)8月3日、当時の東宮御所である東三条院で鼻や口から血を流して頓死します。まだ23、4歳という若さでした。死因は競争的立場にあった☆子(せいし)が呪詛したためだ、という噂が立ったといいます。

 彼女は『枕草子』で有名な藤原定子の妹ですが、あまり有名ではありません。父・道隆が生きていたら東宮が即位して三条天皇となったとき、立后していたでしょう。定子のように残された資料が多くはないので人柄まではたどれませんが、定子のように悲劇的な一生を送った人です。



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☆藤原多子〜人物辞典より 

こちら、『海人の刈藻』の概要…?にも書いたのですが、以前HPを運営していたときに書いた記事。

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彼女は、稀有な例として名前の読みの振り仮名が残っていて、「まさるこ」と読んでいたことが知られています。
ですが、一律にするため、あえて「たし」と読んでいます。







藤原多子
ふじわらのたし

(1140〜1201)

 藤原(徳大寺)公能と藤原豪子との間に、保延6年(1140)に誕生。父の妹夫婦――藤原頼長と幸子夫婦――に子がなかったため、その養女となります。久安6年(1150)正月10日、時の天皇である近衛天皇に入内し、3月14日には皇后に冊立されてます。多子11歳、天皇は12歳でした。

 このころ、藤原氏内部では激しい相続問題が勃発していました。藤原忠通と頼長の兄弟が氏長者の地位をめぐって、骨肉の争いを繰り広げていたのです。兄の忠通は当時摂政太政大臣で氏長者でしたが、それを譲る嫡子がいなかったため2人は対立する関係にありました。

 多子の入内に4ヵ月遅れて忠通の養女・藤原呈子が入内し、そののち中宮となります。彼女は天皇の生母・美福門院の養女でもありました。呈子の入内により、忠通と頼長の対立は決定的なものとなります。

 もともと体の弱かった近衛天皇が久寿2年(1155)7月、17歳の若さで子供がいないまま死去すると、皇位の問題や藤原氏の内部問題、武士の勢力争いが絡み合った保元の乱が起こります。

 呈子は天皇の死亡後出家し、九条院という院号を授かり、美福門院の勢力下でその地位は安定していました。
 しかし多子は保元の乱で養父・頼長を亡くし、出家をすることもなく保元元年(1156)10月に皇太后、同3年2月には太皇太后となります。まだ19歳という若さですが、近衛河原の御所に隠棲していました。

 妖艶な美人であったらしく、書・絵・琴・琵琶の名手として知られます。しかしそのために、近衛天皇には甥にあたる二条天皇の強い要請により、永暦元年(1160)正月、天皇の後宮に入ります。
 彼女としては、父に勧められての意に染まぬ入内だったようです。「近衛天皇が崩御されたとき出家すればこのようなことにはならなかった」と後悔していたりもしたようです。
 『平家物語』では、近衛天皇が幼少のとき汚した清涼殿の障子(月に汚れをつけた)が変わらず残っていたのを見て、

 思ひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲居の月を見むとは
 情けない俗人のままで再びこの宮中に参って、かつて見たのと同じ御障子の月を見、宮中から空の月を見ようとは、思いもしなかった。

 と詠んだといいます。幸せな後宮生活ではなかったようです。世に「二代の后」と称されました。

 二条天皇も永万元年(1165)7月に崩御し、彼女は出家して、建仁元年(1201)12月、62歳で死去します。時代の波に翻弄された人生だったといえるのではないでしょうか。



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☆式子内親王〜人物辞典より 

こちら、『海人の刈藻』の概要…?にも書いたのですが、以前HPを運営していたときに書いた記事。

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式子内親王
しきしないしんのう

(生年不詳〜1201)

 後白河院の第三皇女。母は藤原季成の娘で高倉三位と呼ばれた成子。同母の兄弟に亮子内親王(殷富門院)、守覚法親王、以仁王、休子内親王、好子内親王がいます。また異母兄弟には二条天皇、高倉天皇らがいます。

 二条天皇の御世の平治元年(1159)10月、内親王宣下。そして賀茂斎院に卜定されます。このとき7〜8歳であったと考えられています。
 以後、嘉応元年(1169)7月、病気を理由に退下するまで、二条・六条・高倉天皇の三朝10年間を神に仕えて過ごします。

 斎院を退下したあと四条殿に住みましたが、のちに母の高倉殿へと移ります。このころ父の後白河は建春門院平滋子を寵愛しており、成子は里へ下がっていたと推定されているため、式子は母と生活していたと考えられます。その後、母は死亡。兄・以仁王は打倒平家の兵をあげますが敗死、と肉親の不幸が相次ぎます。

 藤原俊成を和歌の師とし、その息子定家は養和元年(1181)正月、式子の家司として仕えるため始めて三条高倉第に参上します。邸内には香がたかれ、その暮らしぶりの雅さに定家は心が打たれます。このとき定家は20歳、式子は28歳ごろでした。

 文治元年(1185)8月10日、式子は准三宮となります。そしてこのころ、法然と出会ったといわれています。式子は数多く恋の歌を詠んでおり、その相手は長く定家といわれていましたが、最近は法然であるとする説が有力です。二人が出会ったのは下鴨神社の神宮寺功徳院(くどくいん)とされています。式子は30歳ごろ、法然は46歳ごろだったとされます。
 彼女が詠んだ恋の和歌は有名ですが、一番有名なのは百人一首に採られたこの和歌でしょう。

 玉の緒よ絶えなば絶えね永らへば忍ぶることの弱りもぞする
 私の命よ、絶えるならば絶えてしまえ。このまま生き長らえれば、恋を秘めて堪え忍ぶ気持ちが弱まってしまうから。

 建久3年(1192)、父・後白河法皇が亡くなりますが、その前後に出家したと考えられます。戒師は法然が務めました。

 その後、父の死の影響で吉田経房の別宅に移ったりもしましたが、大炊御門殿の邸で生活をするようになります。そこでの生活は優雅なものだったようです。

 彼女は先にも述べたように、藤原俊成を和歌の師とし、数多くの和歌を詠んでいます。俊成の『古来風体抄』は式子の求めに応じて、建久8年(1197)に執筆、献上されたものです。ですが、彼女自身一度も歌合を主催してはおらず、歌壇の一員となることもありませんでした。

 正治元年(1199)ごろから病がちとなり、翌年には乳の腫れが引かず、孤独な日々を送ります。この年の10月には東宮・守成親王(後の順徳天皇)を猶子とします。

 ですが、病は悪化し、乳の病も引かず足も腫れるようになります。翌建仁元年(1201)正月、危篤状態となります。この時、法然から手紙が届きます。夢や幻である現世には未練を残さず、再びまみえる浄土で待っていて欲しい、と書かれたその手紙を読んでまもなくの正月25日、式子は亡くなります。享年は49歳か50歳とされています。

 彼女がもう少し長生きしていたら、猶子の東宮・守成親王が即位していた暁には女院となっていたかもしれません。肉親の縁が薄く、孤独な人生を送ったとされる生涯です。



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☆在原業平〜人物辞典より 

こちら、『海人の刈藻』の概要…?にも書いたのですが、以前HPを運営していたときに書いた記事。

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こちらで藤原高子について書いているのですが、それと対になる形で書いていたもの。
相変わらずの文章力のなさに赤面(泣)








在原業平
ありはらのなりひら

(825〜880)

 平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。在五中将・在五と称されていたようです。

 平城天皇第一皇子である阿保親王の五男。母は桓武天皇の皇女、伊都内親王。天長2年(825)誕生。同三年、兄の行平らとともに在原朝臣の姓を賜ります。

 承和8年(841)1月、右近衛将監に任ぜられ、以後、従五位下、右馬頭、右近衛権中将などを経て、従四位上・兼相模権守、のちに兼美濃権守となり、元慶3年(879)10月、蔵人頭に任ぜられます。

 『三代実録』に「容姿端麗、自由気ままな行動、謹直な才学の人ではなく、詩人肌の人であった」と伝えられたように、美男の歌人で、その逸話は『伊勢物語』の中に拡大構築されて伝流されました。勤直な才学の人ではなかったようですが、情熱的で真情あふれる歌を詠み、『古今和歌集』に採られた和歌は三十首の多さに上ります。寛平・延喜の和歌興隆にさきがけて異彩を放つ存在です。

 在原業平は『古今和歌集』『伊勢物語』などから、紀名虎の子・有常の女を妻としたこと、文徳天皇の皇子で名虎の女所生の惟喬親王(業平の妻の従弟にあたる)に親近したことが知られます。その妻のほかには、染殿内侍とも関係を持っていたようです。
 二条の后と呼ばれた藤原高子との関係や、惟喬親王の妹・恬子内親王と思われる斎宮との関係も伝えられています。この二人との関係は、『伊勢物語』だけでなく、『古今和歌集』にも伝えられており、物語の形を借りた真実だと人々は認識していたようです。
 業平の和歌は『古今和歌集』のほか、勅撰集や私撰集に数首伝わっています。

 子に棟梁(むねなや)(紀有常の女所生)・滋春(染殿内侍所生)がいて、いずれも歌人です。他に高階氏の養子となった師尚(恬子内親王所生と伝えられていますが…)や、女子もいました。

 業平は元慶4年(880)5月28日、56歳で亡くなっています。死に相対しての和歌と思われる歌が、伊勢物語に残っています。

 つひにゆく道とはかねてききしかど昨日今日とは思はざりしを
 人が最後に行く道があるとは聞いていたが、その道が昨日・今日にせまっているとは思わなかったな。



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☆藤原高子〜人物辞典より 

こちら、『海人の刈藻』の概要…?にも書いたのですが、以前HPを運営していたときに書いた記事。

私がやっていたHPはみなさん思い当たらないとは思うんですけど、もし思い当たって気付かれた方がいらっしゃったら、コメントではなくメールフォームからお願いします!!←何度も書く。

こんな人物解説もしてました。
文章力のなさはあいかわらずですけど。

あえて、こうしと読んでいますが、普通は「たかいこ」ですよね。
振り仮名が振られていないので、音読みで読むという原則に従っています。







藤原高子
ふじわらのこうし

(842〜910)

 権中納言(贈太政大臣)藤原長良の第三女として誕生。母は藤原乙春。

 叔父・良房と兄・基経の政治基盤強固のため、従弟である清和天皇に入内します。清和天皇は良房の娘・明子(めいし)が文徳天皇との間に産んだ皇子です。高子のほうが8歳年上という、誰が見ても不釣り合いな夫婦でした。

 入内する前の貞観元年(859)、彼女が18歳のとき、五節の舞姫に選ばれています。これは未来の后として世に披露するためです。清和天皇はまだ10歳で元服(男子の成人式)をすませていなかったので、それを待って彼女は入内するはずでした。ですが、このとき彼女はひとりの男性と出逢います。当時35歳の在原業平です。

 『伊勢物語』では高子と業平の悲恋物語を伝えています。特に、六段「芥川」は有名です。内容を紹介します。

 男(業平)は女(高子)を盗み出します。真夜中、女は草の上できらめく露を「あれはなに?」と尋ねます。女は深窓に育っていたため、そのようなものがわからなかったのです。男はひどく急いでいたため、その問いには答えませんでした。雨がひどく降ってきたので、途中に会った小屋に女をかくまい自分は外で見張りをしていました。すると、小屋に住んでいた鬼が女を一口で食ってしまったのです。夜明けに男が中に入ると女の姿はありませんでした。男は悔いて泣きます。

 白玉か何ぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを
 白玉かしら、何かしらと愛しい人がたずねたとき、露のきらめきだよと答えて、露のように私の身も消えてしまえばよかった。そうすればこんな悲しみを味わうこともなかったのに。

 この話は高子が盗み出され、それを彼女の兄たちが取り返したことを鬼といっているのだ、と付け足しされています。
 この段が史実かどうかはともかく、物語の形を借りた真実だとして2人は恋愛関係にあったとする見方が一般的です。とすると、高子は業平との恋を引き裂かれたことになります。

 それからしばらくたった貞観8年(866)11月頃、彼女は清和天皇に入内します。彼女は25歳、清和天皇は17歳でした。12月に女御となります。そして同10年(868)12月に貞明親王(のちの陽成天皇)を産み、親王は翌年東宮になります。叔父や兄の願望がここに実るわけです。彼女は他にも一皇子一皇女を産んでいます。

 しかし夫である清和天皇との仲は、必ずしも睦まじいものではなかったようです。清和天皇の後宮では20人以上の女性たちが寵を競っており、寵愛されている女性は藤原多美子という高子入内前からの女御でした。

 東宮の御息所とよばれていた貞観18年(876)11月、彼女は大原野神社に行啓します。そのとき供奉した業平は、

 大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひいづらめ
 大原野においてこの小塩山においでになる氏神様も、東宮の母の藤原氏出身の御息所の御参拝になった今日のこの日には、その昔、天孫降臨のお伴をして大君をお守りした神代のことも思い出していらっしゃるでしょう。私も遠い昔のことを思い出しております。(訳…講談社学術文庫 阿部俊子)
と詠みます。
 業平にも高子にも恋の炎は燻り続けていたのでしょうか。それはわかりませんが、同じ月に清和天皇は譲位し、翌年1月高子が産んだ貞明親王が陽成天皇となり、彼女も皇太夫人となります。それから業平は急に出世を続けます。天皇の母后である高子の意向によるものだったのでしょうか。ですが、業平はそれからわずか3年後の元慶4年(880)5月に56歳で亡くなってしまいます。

 時は少し前後しますが、高子は元慶2年(878)に東光寺という寺を建立し、同6年には皇太后に叙されます。
 ですが、同8年2月に陽成天皇が奇行が目立つとして、17歳の若さで退位させられます。それから高子は東光寺の高僧・幽仙と不倫の関係にあると噂になり、幽仙の後に座主となった善祐とも噂になります。そして寛平8年(896)9月、善祐と密通したとして皇太后位を廃され、善祐は伊豆国に流されてしまいます。

 彼女はそれからひっそりと生き、延喜10年(910)3月24日、69歳で波乱の生涯を閉じます。二条にある二条第を里第にしていたため「二条の后」と呼ばれました。
 崩御33年後の天慶6年(943)5月、皇太后の本号に復され、彼女の名誉は回復されることとなります。時は朱雀天皇の御代となっていました。


★参考図書★
 歴史と旅 特別増刊 百二十五代の天皇と皇后(秋田書店)
 伊勢物語 上・下 全訳注安部俊子(講談社学術文庫)
 新編日本古典文学全集12 伊勢物語(小学館)






 参考文献:新編日本古典文学全集(12) 竹取物語、伊勢物語、大和物語、平中物語


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